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August 02, 2015

日本の安全保障問題に關する雜感

安全保障とは讀んで字の如く、國民の安全を保障するための國家の行動を總稱するものだと思う。今世閒で騷がれているのは安全保障のための法整備についてだが、國民の安全を保障するための議論をし、安全保障に必要な法整備をしようとしているのに、それに反對している人がいる。ものすごく單純に考えれば、國家が國民の安全を保障するための法律を作ろうとしているのに、それに反對するということは、安全なんて要らないということなのだろうか?と疑いたくなる。

反對している人の意見で最も多そうに見えるのは「今囘の安保法制が可決されると日本は戰爭をする國になる」ということらしい。國家の安全を保障する方法として戰爭をする國になるしかないのであれば、それもやむなしというのが私の基本的な考え方である。私個人がどのような意見を持ち、それを主張しても、日本を他國から守るために軍隊を持ち、戰爭をするしかないのであれば、そうするしかないのだ。それよりももっと良い方法があるのであれば、それを實施すれば良い。

安保法制を推進する立場の人たち、すなわち與黨、政府、保守系言論人たちは、ここに過剩反應する。別に日本を戰爭する國にしようとしているわけではない!と。しかし冷靜に考えてみれば、この安保法制がなされる前と後を比較すると、日本は明らかに戰爭が出來る國に近づくだろう。だとすれば、日本を戰爭する國にしたいわけじゃないなどといくら叫んでも、效果はないし納得も得られない。左翼、護憲團體、共產主義などの活動家や言論人に對しては完全に逆效果であり、ある意味エサを與えるようなものだと言える。

日本は第二次世界大戰に敗れ、主權を失っている最中に日本國憲法を制定され、武裝解除し、他國に對する交戰權を放棄した。そしてサンフランシスコ講和條約により日本は主權を囘復したが、米軍はそのまま日本に駐留した。これは何も日本を守るためではなく、當時の主にソ連に對する米國の軍事フォーメーションである。しかし、主權を囘復した國にあたかもそこが軍事據點であるかのごとく基地があり、軍隊が大勢いるのはおかしいので、それを日米軍事同盟という名のもとに正當化した。さらに、朝鮮戰爭が始まると基地が手薄になるというので警察豫備隊(自衞隊)を作らされ、憲法に謳った武裝解除、交戰放棄の精神はあっさり解釋變更された。つまり、日本の憲法に何が書かれているかより、目の前の戰爭に對應することを優先されてしまったのだ。

戰勝國は敗戰國の法律を變えてはいけないという國際法を破ってまで、米國をはじめとする連合國側が日本の憲法を制定しておいて、都合が惡くなるとそんな經緯はコロッと忘れて好きなようにされてしまうのだから、他國からは、日本に主權があるようには見えないし、日本人はそういうことを氣にしない國民なのだろうと思われても不思議ではない。ここまで書いてきて、日本はまるで世界の中のいじめられっ子であり、またそうと氣付かれないよう完全に外堀を埋められ、スパイ活動、情報操作・統制などの工作活動され放題、二言目には資源脅迫を受け續けてきた。

このような狀況下にあって、冒頭に書いたように日本の安全保障を今よりも良くしようとする法整備を進めると、日本の平和が失われるかのごとく騷ぐ人がいるというのはどういうことなのだろうか?

冷靜に考えれば、安保法制を進めたい保守系の人たちは、舊連合國がこれまで日本に仕掛けてきた作戰・工作が不當かつ不平等、これでは國家の體を成していないと考えており、そうでない人たちは舊連合國の言いなりになっていなければ日本の平和を維持出來ないと考えている、という非常に皮肉な構造になっているということにならないだろうか。つまり安保反對の人たちは、突き詰めれば他國と角付き合わせた對等な關係を目指し、それを成し得たときに日本の平和や安全は失われるということを、無意識のうちに想像しているのではないのだろうか。

しかし眞實は、日本が戰爭をしない國だから平和なのではない。また、戰爭する國になるから平和でなくなるわけでもない。そのような單純な對立によって世の中が動き、成り立っているのではない。常にそういった相對する考えがいくつもぶつかり合い、他國からの工作活動・洗腦も含め、多くの要素を勘案したうえでより良い結論を出し、それを一旦は肯定して行動し、問題があれば考え直す...という一見非效率な營みによって、結果的に日本は個々にいくつかの問題を抱えながらもある程度平和な狀態を維持してきた。恐れるべきは、對立する考えが全くぶつかり合うことなく物事が決まり突き進んでいくことであろう。

確かに、北朝鮮拉致被害者を取り返しに行けない國が平和でマトモな國なのか?という喫緊の問題はある。しかし、拉致被害者を取り返しに行ける國になったら、今度は自衞隊(日本軍?)や國民に犧牲者が出るかもしれないという別の問題が懸念される。これは安全保障をどうすれば良いかと考えるだけでなく、日本はどういう國になりたいのかという點が問われているのだろうと思う。つまり、他國からのテロ行爲を甘んじて受けることにより犧牲者を出しても良しとするのか、それとも、他國からのテロ行爲に對抗するために犧牲者を出すことを許容するのか。これはどちらが犧牲が大きいかと短絡的に考える前に、そもそも日本はどういう國になりたいか、どういう國でありたいか、どういう國であるべきかなどについて、國民全體の議論を速やかに廣く深める必要があると思われる。

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