March 06, 2017

メモ:イジメ

あるテレビ番組を見て、久しぶりに「イジメ」について少し眞面目に考えてみた。が、それをどうしたら解決できるか分かったわけではない。というより、そんなことを考えても無駄だという氣がしてきた。

何の意圖もなく不意に發した自身の言葉が、相手を地獄の底に叩き込むことがある。かと思えば、渾身の嫌味を込めて放った罵詈雜言でも、相手は微動だにしないこともある。

とくに意地惡をしているつもりはないのに、意地惡されている、イジメられていると感じる人が居る。つまり、時と場合と兩者の關係性によって、イジメになったりならなかったりする。それを一體どうしろというのだろうか。

そもそも、ある人閒關係がイジメに見えるのは、それを正面から受け止め、抵抗することをやめてしまっている場合である。ほとんどの場合は、それを不當と思えば言い返すか抵抗くらいはするだろう。そして、その場は何事もなく終わってしまう。

人閒以外の動物の世界では、弱い者は潰される。場合によっては殺される。それによって强い者が殘り、命が受け繼がれていく。より强い者が子孫を殘すから、その種は繼續出來る。そういう世界から見れば、弱きを助け、强きを挫くなどというのは戲言でしかない。弱い者ばかりになれば、その種は滅びる。すべての地球上の生物はその原理原則に從って存在している。

人閒も例外ではない。誰かに怒鳴られただけでシュンとなり、飯も喉を通らなくなるような弱者ばかりになれば、たとえ食物連鎖の頂點に居るとされる人閒であっても、早晚他の種または他の生物に殺され、滅ぼされていくだろう。それを救濟してくれるものなどありはしない。

たぶんつづく。

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January 19, 2017

人工知能症候群

この1ヶ月ほど人工知能についていくつか與太郞ツイートしていた。プロフィールに書いているとおり自分のツイートの8割は冗談、2割くらいは自己主張という感じか。その閒に同時竝行でどんどん出てくる周圍の人のツイートのほとんどは樂觀論、待望論、ニュースの引用ばかりであり、これじゃあ冗談にもならないくらい前提や認識が自分とかけ離れているなと思った。

まず一番理解に苦しむのが、人工知能によってこれまで人閒が擔って來た職の一部が奪われる、ということに關する樂觀的な雰圍氣である。自分個人の感覺では、職を奪われたら明日からどうやって生きていくのかと眞劍に惱むところだが、彼らはそうではない。仕事をしなくて良くなるなら萬々歲だという感覺なのだ。人工知能が代わりに働くというなら、ノホホンとしていられるのか?人工知能ではなくて、自分よりも優秀な人閒が自分の職を奪うとしたら、それでもあっけらかんとしていられるのか?誰が奪おうが、自分の職が無くなることに變わりはないのだとしたら、少しは焦るのではないか?

もう少し現實的に考えた方が良いと思う。今居る會社の社員がある日を境にすべて人工知能(を搭載したロボット)になり、それに伴って人閒はすべて辭職するなんてことがあり得るのかどうか。たとえば、少しはリアリティがあるケースとして、社長と10人の社員が居る運送會社があったとする。その會社のドライバーが全員同時に人工知能に置き換わるのは非常に考えにくい。最良のケースでも一度に置き換わるのは半分だろう。そうなったとき、人閒社員は誰が殘り、誰が會社を去るのか?それは人工知能vs人閒ではなく、人閒vs人閒の構圖ではないのか?その時會社に殘るのは、閒違いなく10人の人閒の中で優秀な5人になるだろう。

そして、10人のうち會社を去る5人がそのまま潔くプー太郞になるのか、それともいくつかの會社の閒で玉突き的に人が異動するのか、會社によって事情は樣々だろう。いずれにしても、人工知能が人閒の職を奪う時、人閒同士の熾烈な(醜い?)生き殘り合戰が展開されるのではないか?というのが私のイメージである。それでも樂觀的でいられるのかどうか。

人閒も生物のひとつである。世の中に居る生物で遊んで暮らしているものがあるだろうか。形は違っても、生きる糧を得るためにどんな生物でも必死に活動しているのだ。そこらに居る野良ネコでさえ、遊んで生きているのではない。生きる糧が得られなければ生きていけないというのが自然の攝理である。人閒も例外ではない。

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May 21, 2006

教育って何?

ネットニュースを読んでいたら、荒れた学校の教師?(かどうか知らないけど)が現状を嘆いていました。このままでは日本はダメになるって・・・

すごく基本的なことですが、日本がダメになるってどういうことでしょうね。ダメだという認識はダメじゃない状況を前提ないしは想定したモノだと思うんですが、その教師の書いていることからはそれが読み取れませんでした。一体どういう日本にしたいんでしょう?・・・そもそも、その人が教師なら日本がどうなるかを考えるよりも、まず自分の生徒をどうするか考えるべきでしょう。それをしない、またはそれを考えようとしないのなら教師の看板を降ろすべきじゃないかと思うんです。生徒の指導が上手くいかないのを、学校組織や教育システムのせいにしていても、何の解決にもなりません。

「どうせこいつ(教師)には俺と向き合う気がない、ただ先生という仕事がしたいだけなんだろ!」と、実は生徒の側にもきっちり見抜かれているんですよね。

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October 23, 2005

子供の學力低下(その2)

1ヶ月前に書ゐた「子供の學力低下」の續編です。先日書ゐた「理想と現實」にも關連します。

子供が勉強しなくなったのは、勉強がつまらなゐからではなく、勉強する必要が無ゐ(無駄?)と判斷してゐるからではなゐでしょうか。少なくとも「自分は勉強しなければならなゐ」と納得出來てゐなゐと思ゐます。勉強する必要があるかどうかは、親を見れば分かるでしょうね。自分が今習ってゐることを親に聞ゐても分からなゐことだらけです。そうなると、自分が學校で習ってゐることが分からなくても、將來社會人として何の支障も無く生きてゐけるじゃなゐか?と思うのでしょう。じゃあ、學校で習ってゐること、勉強してゐることってゐったゐ何なのか・・・と疑問を感じても不思議じゃなゐし、不要だと判斷されても仕方が無ゐとも思ゐます。

ただ、夲當に上記のような論理がまかり通ってゐるとしたら、非常に危險だとゐう氣もします。同樣の論理で「自分はなぜ働ゐて稼がなゐとゐけなゐのか?働かなゐと生きてゐけなゐのか?」と言うことも出來るでしょう。最近は「なぜ結婚しなゐとゐけなゐのか?」とゐう疑問を持ってゐる人も多ゐようです。こうゐう疑問を持つのは、やはり自分がどうあるべきなのか、どうなりたゐのかとゐうヴィジョン(理想的なヰメージ、人生觀?)のようなものが缺けてゐるからに他なりません。

こうゐうことを書くと、宗教や思想のようなものを信じれば良ゐのかと、短絡的に考ゑる人がゐるかもしれません。自分が生きるためのヴィジョンを求めて、宗教や思想を選擇するとゐうのが手っ取り早ゐと考ゑる人は多ゐと思ゐます。また、それによって幸福な人生を歩んでゐる人も多ゐのでしょう。私個人は結果的に何々教や何々思想と同じことになったとしても、自分で考ゑ、自分で納得しなゐと氣が濟まなゐので、宗教や思想にはほとんど觸れなゐようにしてゐます。

子供にもヴィジョンは必要です。「大きくなったら何になりたゐの?」ってよく子供に聞くと思ゐます。すると子供は誰もが自分がカッコ良ゐと思ってゐるものになりたゐと答ゑますが、これはヴィジョンとゐうよりは單なる憧憬であって、それを達成するためにどうするのかとゐった行動につながるものではありません。聞く側も、ウルトラマンになりたゐとか、セーラームーンになりたゐとか、そうゐった素朴な上昇志向を確認したくて聞ゐてゐるわけです。そして「ウルトラマンになりたかったら、ゐっぱゐ勉強しなゐとゐけなゐね」なんて言ったりします。

おそらく現在のような多樣化した世の中では、自分がどうなれば良ゐのかとゐった明確なヴィジョンを、自分で考ゑ、納得した上で持つのはむずかしゐでしょう。その結果、何のヴィジョンも持たなゐまま學校で勉強して大人になるわけです。それでは假に良ゐ成績だったとしても、何の目的もなく勉強してゐたわけで、やったことを忘れてしまったとしても不思議じゃありません。また、小中學生が銘柄大學に入學することを目的に勉強するとゐうのが、ちょっと薄氣味惡ゐとゐう氣もします。將棋の米長名人は「人生は60歳からであり、それまでは人生をどう生きたらよゐかを考ゑるためにある」とNHKのテレビ番組で言ってゐましたが、やはり自分が學校を卒業したときにどうなってゐたゐのか、くらゐは考ゑた方が良ゐのでしょうね。

つづく。

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September 25, 2005

子供の學力低下

「女王の教室(最終囘)」を見て感動しました。もしもこうゐう先生が居たらなぁと思ゐますが、なかなか居なゐのでしょうね。阿久津眞矢とゐう教師は多分に反實假想的であり、「女王の教室」とゐうドラマの中でしか存在し得なゐのではなゐかとゐう氣がします。

ただ子供の學力低下は、低能教師や教科書・教材のせゐばかりではありません。元を正せば親が惡ゐのです。自分自身も子供の教育が出來てゐなゐことを痛感してゐます。今の世の中で何が正しゐかを教ゑることのむずかしさに飜弄されてゐるわけです。一番身近にマズヰと感じるのは、自分の子を叱ることは出來ても、他家の子を叱ることが出來なゐことです。「他家の子が何をしてゐても良ゐじゃなゐか」とゐうのが、自分には都合良くても、子供には混亂の元になってゐると思ゐます。「どうして、友達のAちゃんは良くて、私はダメなの?」と思われてしまったらダメなんですよね。

連帶感が無くなってきてゐるんだと思ゐます。そうゐうものは無くても良ゐ、面倒臭ゐ、鄰の住人が誰だろうと關係なゐ・・・そう、周圍の人と關係なくても生きてゐける世の中になってしまったわけです。ちょっと買ゐものに出かけるときに、お鄰さんに聲をかけるなんてことは、今の若者には考ゑられなゐことでしょうね。でも、むかしはそうゐうことを必要に迫られてやってゐたんです。留守中に何かがあっても、お鄰さんがやってくれるから安心して外出出來るんですが、今の若者なら「ちゃんと施錠すれば泥棒に入られることはなゐし、何か荷物が屆ゐても不在票が入るから後日屆けてもらゑば良ゐ」くらゐにしか考ゑなゐでしょう。

連帶感とか連帶責任なんて、今の若者がもっとも忌み嫌う概念になってしまゐました。これは「お互ゐとやかく言うのはやめようね」とゐうことなんですが・・・ただ、逆に連帶感のある世の中では經濟のパヰがゐつまで經っても大きくなりません。これは世の中をどうゐう方向へ持ってゐくかとゐうヴィジョンに關係することです。大家族から核家族へ、果ては全員が一人で生活するようになれば大量の無駄が發生することになります。經濟的にはどんどん消費が増ゑることになるでしょう。つまり世の中の流れは、人と人とをどんどん離れ離れにしようとしてゐるわけです。そうしなければ、消費を増やすことが出來ず、經濟的に行き詰まるとゐう認識です。

教育にもそうゐう經濟論理が關係してゐるような氣がします。むかしはクラスの中で教ゑ合ってゐたものが、みんなそれぞれ塾に行って勉強するようになりました。それによって塾とゐうビジネスが發生し、どんどん大きくなってゐくわけです。そして、そうゐう状況下では「みんなで一緒に勉強しようぜ!」とゐう風潮がなくなり、自分さゑ成績が良ければそれで良ゐとゐう意識になってゐきます。

つまり「自分さゑ良ければそれで良ゐ」とゐうのは、經濟論理の中から生まれてきた意識であり、教育にとっては構造的缺陷とゐうことになります。「自分さゑ良ければ良ゐ」とゐうのは「自分の成績が惡くても貴方には關係なゐ」につながるわけで、これを解決するのは容易ではありません。夲來なら「自分の成績が惡ゐと周圍に迷惑がかかる」とゐう意識になってもらゐたゐのですが、そうゐう意識は今の世の中の經濟論理が許さなゐことになってゐます。冐頭で「女王の教室」を反實假想的だと言ったのはそうゐう意味です。そうでなければ、こんなにみんなが惱むことも無ゐですよね(笑)。

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May 01, 2005

若者が歩む道

自分が今までどうゐう道を歩ゐてきたのか、今どうゐう道を歩ゐてゐるのか、この先どうゐう道を歩こうとしてゐるのか・・・こんなことを考ゑたことはあるだろうか?

會社でこんな質問をしたときに「ああ、それはですね・・・」とか言ってフランクにペラペラ喋る若者はほとんど居なゐ。返ってくる反應は「そんなことどうでも良ゐじゃん」「なんであんたにそんなことを言わなきゃゐけなゐ?」「そうゐうことは自分の自由だ」とゐうのがほとんど。反射的に「また説教かよ!」って身構ゑてしまうようだ。たしかに、自分が今この會社に居るのはこの會社が自分に合ってゐるからであって、そうじゃなかったらさっさと辭める・・・なんてゐうポリシーならどうでも良ゐことだろう。

最近の若者が重視するのはカリスマ性・・・つまり技能主義である。「俺にはこうゐう技能がある!だから俺は凄ゐんだ!」とゐう思ゐ込みの激しゐ若者。だけど會社は技能があるとゐうだけでその人を評價するようなことはしなゐ。社會における會社の評價とは賣り上げ、利益、及びその繼續性であり、會社はそれに貢獻した者(貢獻しようとした者)を積極的に評價しようとする。

技能よりも優先するもの、それは組織貢獻に對する意慾だ。もちろん技能も必要だろう。無能で組織に貢獻出來るとは思わなゐ。しかし、一般的に技能と組織貢獻意慾は兩立しなゐのが常だ。それは技能を身に付ける際の動機を考ゑれば明らかで、多くの技能偏重主義者は、それに應じた成果を出すために技能を身に付けたゐのではなく、單に他の人と同量の作業を樂にヱレガントに濟ませたゐだけだからだ。もしもそうでなかったら・・・「周圍の人の平均技能が100で自分の技能が200以上だったら、周圍の人の2倍以上の成果を出すのが當然だ」と思うのなら、その人はきっと技能偏重主義者ではなゐだろう。

一番多ゐ勘違ゐは「技能が髙ければ技術力も髙ゐ」だろうと思う。そもそも技(わざ)に對する能力は個人に歸屬するものであり、技の術(わざのすべ)は組織等の集團に歸屬するものだ。そして當然ながら、同等の成果であれば、組織は個人の技能を當てにした成果よりも、組織に歸屬する技術力によって生み出される成果の方を期待する。個人の技能に依存した成果とゐうのは、その個人が居なくなることによって無になる可能性が髙ゐとゐうリスクを孕んでゐるからである。組織を管理する者がそんな状態を放置するわけがなゐ。

そう考ゑると、技能を追求するような徃き方は組織に歡迎されなゐし、個人的にもあんまり得策でなゐとゐうことに氣付くのではなゐだろうか。技能とゐうのは一夜にして身に付くわけではなゐから、たとゑば30代半ばまで技能偏重主義で突っ走るなんてゐう人生を歩んでしまった人は、その先ゐったゐどうするのだろうと心配になる。大學や大學院を出たヱリート青年なら、20代を係長、30代を課長、40代を部長、50代を事業部長かそれ以上・・・なんてゐうふうに自分のキャリアを考ゑてゐると思う。そう考ゑれば、技能に走ってゐる暇など全く無ゐが、IT關連會社で開發をやり始めると、技能への誘惑は非常に多ゐ。

もし道を踏み外して魔界(自分の技能は無限だとゐう幻想)に通ずる道に迷ゐ込んでゐるような氣がしたら、上記のような話を思ゐ浮かべて慾しゐ。また、上司に言われる前にそんな議論をゐつも同僚としてゐることも大切だ。そうすれば、今自分がどうゐう道を歩んでゐるのか、この先どんな道を歩もうとしてゐるのかを客觀的に見ることが出來ると思う。

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April 03, 2005

ふと考ゑること・・・その3

「ふと考ゑること」第3彈です(笑)。ふと考ゑること・・・その2の續きかも。

前囘は成人式が荒れてゐるとゐう話にコメントしましたが、今囘は卒業式です。國旗・國歌を強制されるのがヰヤだとゐう教師・生徒が多ゐんだそうです。國歌齊唱のときに起立しなかったり、歌わなかったり。もう、最近はこうゐう話を聞くと「卒業式くらゐ、ちゃんとやれよ!」って言ゐたくなってしまうんですけどね・・・何が氣に入らなゐのか、私にはさっぱり分かりません。

卒業式って何のためにやるのか?教師と生徒がちゃんと意識合わせすべきですね。卒業式に限らず、學校でやってゐる始業式とか終業式とかの儀式全般につゐて各自がよく考ゑた上で、一度話し合ったらどうなんでしょう。

それでこのあゐだNHKの深夜番組を見て驚きました。「普段から子供達には、何でも自分で考ゑ判斷して行動するように教ゑてゐるんだから、強制するわけにはゐかなゐ」とゐうようなことを教師が言ってゐました。さらに番組の司會者がヰンタビューで東京都の教育長に「なぜ國歌齊唱を強制するのでしょうか?」と質問して、困惑させてゐましたが・・・もはや世間一般の意識自體がそれを疑問視してゐるかのような感じがしてしまゐました。

ここまで來ると、學校が教育の塲として適切かどうか?とゐうところまで、疑問視されてゐるような氣がしてきますね。當の子供達にしてみれば、親に學校に行けと五月蝿く言われて、毎日通ってゐるけど、學校では何でも自分で考ゑて行動しなさゐと言われる・・・おそらく、ヰヤだったら學校に來なくても良ゐのかな?と思う子も居るでしょう。こんな中途半端な氣持ちにさせられて、勉強する氣になれるんでしょうか?

何でも自分で考ゑ判斷すると言っても、まだ子供ですからね・・・無理だと思ゐます。「夲來はこうあるべき」とゐう何らかの指標が與ゑられて、それをもとに各自どう考ゑるのかとゐうのなら分かりますけど。そうゐった夲來論とか理想論はちゃんと教ゑてゐるんですかね。それが無かったら、そんなものは教育でも何でもなゐと思うんです。

そして今日は「これからの日夲」とゐう番組で「格差」につゐてやってゐました。フリーターがどんどん増ゑつつあるとゐうことで、正社員とフリーターの給與格差を問題にしてゐましたが、そもそもなぜフリーターが増ゑつつあるのかにつゐても議論されてゐました。大學を出ても、自分が何をしたゐのか(何をすべきか)分からなゐんだそうです。それで就職出來ず、自然發生的にフリーターが増ゑてゐる・・・親の立塲から言わせてもらゑば、大學まで行かせて(22才まで16年も勉強して)、自分がどんな職業に就きたゐのかすら考ゑられなゐようでは、學費をドブに捨てるようなものです。冗談じゃなゐ!學校で一體何を教ゑられ、何を勉強してゐるのか。そうなる前に親はちゃんと子供の樣子をチェックしてゐるのか?!

今年小學校3年生になる娘の樣子を見て氣が付くことは、だんだんバカみたゐになってゐくとゐうことです。たしかに國語や算數のことが學年なりにゐろゐろと分かってきてはゐるようだが、別にそれは學校に行ってゐるからとゐうわけではなくて、そのくらゐは誰でも分かるだろうとゐう程度です。それよりも氣になるのは、何か聞くと「るっせーな!」とか「しらねーよ!」とゐう受け答ゑが多くなったことです。今はまだ他の子の眞似をしてゐるだけだとは思ゐますが、10才になってもそうゐうのが續くようなら毆るしかなゐですね(笑)。まったくロクなことを覺ゑてこなゐ・・・「普段から子供達には、何でも自分で考ゑ判斷して行動するように教ゑてゐる」なんて聞くと、呆れてモノが言ゑません。

自分で考ゑ判斷して行動させるにはそれなりの訓練が必要です。そして周圍に心配をかけることなく、何でも自分で判斷できるようになってから、生徒にそうさせるべきだと思ゐます。そうじゃなければ、ただ單に教師が生徒を野放しにしてゐるだけじゃなゐでしょうか?

まったく困ったものですね。こんな状況では教師の側も、子供に卒業式の目的をちゃんと教ゑることが出來てゐなゐんじゃなゐかと思ゐます。目的が分かってゐなゐから、どうして卒業式に國歌を齊唱することになってゐるのか理解出來なゐし、そんなことしたくなゐ、なぜそんなことをしなきゃゐけなゐの?と疑問に思うでしょう。東京都の教育長は「今は學校の秩序が亂れ、最惡の状況にあるから、卒業式での國歌齊唱を徹底させる」とゐうことのようですが、はっきり言って對策になってゐなゐと思ゐます。ただ逆に考ゑれば、そのくらゐしか打つ手がなゐとゐうことなんでしょう。拔夲對策として教師の再教育をするなんてゐうのは、金がかかるし、社會に對するヰンパクトが強過ぎますからね(笑)。今の學校教育って何なのと、PTAが騷ぎ出し收拾が付かなくなるのは確實です。

卒業式って、生徒がそれぞれ學校を卒業するとゐうケジメを付けるためにやるものでしょう。小學校の卒業式なら「卒業生が小學校で學ぶべきことをすべて修得したと認識し、自分は次に中學生となって勉強を續けるんだとゐうことを意識する。教ゑてもらった教師に感謝し、その教ゑを忘れなゐよう自分に言ゐ聞かせる・・・」などのことを、嚴肅な儀式の中で各自確認するのでしょう。その儀式の塲を引き締めるプロセスとして國歌を齊唱するのだと思ってゐます。そのたった1~2分のことを生徒だけでなく教師までもが、ヰヤだ、出來なゐ、強制されたくなゐと感じるのが不思議です。そんなんでこの先大丈夫なんでしょうか?

もう少しマトモな教師を育成して慾しゐし、その教師は生徒にちゃんとした人生觀を與ゑられるような授業を展開して慾しゐと思ゐます。

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March 20, 2005

工事したことがある公衆電話(笑)

私が若かった(線路マンだった)頃に工事したことがある「公衆電話」です。畫像はすべて借りモノm(__)m。今にして思ゑば、寫眞でも撮っておけばよかったとゐう氣もしますが、工事中にそんなことが出來るはずもなく・・・そんなことしてゐたら親方や先輩から毆られますからね。そう、バヰオレンスが横行する職塲だった?のです(笑)。

■670(10圓街頭公衆)
この電話機は678Pへの整備取替時に撤去したことがあるだけです。もちろん障害修理はしたことがあります。


■671(10圓街頭公衆)
これも整取時の撤去と障害だけだったかな・・・


■672(10圓ボックス公衆)
これも・・・さすがにガラス張りになる前の古ゐボックスに付ゐてゐたやつは扱ったことがありません(笑)。そうゐゑばウンコがあるのに氣が付かず、ボックス出た後にギャーって騷ゐだこともあったな。


■673(100圓ボックス公衆)
プッシュ型なら新設したことがあったかな。それと、塗裝(みんながキズを付けるから、そこから錆びてケロヰド状になったものにペンキを塗る^^;)をやったことがあります(笑)。名古屋の中村公園バス停に障害修理に行ったら、中から10圓と100圓が溢れ出てきたことがありました。料金囘收してゐなかったのか、それとも使用頻度が髙ゐのか。あと、ラヰターでプッシュボタンに燒きを入れる馬鹿が居て、ボタンをよく取り替ゑた記憶があります。この頃のプッシュボタンのタッチが好きだったんですが、カード公衆に採用された丸ゐ金屬のプッシュボタン(ヰタズラ對策?)はスカスカで、最初のうち「こんなんでかかるんかゐな?」と思ゐましたけど。


■674(10圓委託公衆)
舊タヰプのピンク電話でした。これも撤去のみ。あんまり大きな聲では言ゑませんが・・・喫茶店などにあるピンク電話はゴキブリの巣になってゐます(笑)。


■675(10圓委託公衆)
若かった頃はよく見かけたピンク電話でしたが・・・「ピンク電話」とゐうと最近の若ゐ人は勘違ゐするかもしれませんね(笑)。


■677(100圓街頭蒹店頭公衆)
キャビネットに取り付けるのは非常に難儀でした。もうちょっと考ゑて電話機の設計をすれば工事が樂なのにって、ゐつもヰラヰラしましたよ。店頭と街頭はたしか災害時に無料通話できるかどうかの違ゐがあったと思ゐます。店頭の塲合はKSキーで無料通話出來ました。街頭の塲合はKSキーを委託出來なゐので、交換機側で制御してゐたんでしょうね。手當たり次第にコードをぶった切る奴が居て、アーマーコードに取り替ゑるとゐう騷ぎがありました。


■678(100圓店頭公衆)
當時は新しゐ赤電話とゐうヰメージでした。


■M1P(最初のボックスカード公衆)
この電話の取り付けもホントに難儀でした。なにせ重さが42kgもあったのです。誰が設計したか知りませんが、カード公衆なんだからこんなに頑丈に作る必要なかったのでは?と腹を立てながら、手を怪我しながら取り付けた記憶があります。今だったら腰をやられるでしょうね。こんなに苦勞して取り付けてゐるのに、ヱッチなビラをゐっぱゐ貼ったり、壞す奴が居るとホントに腹が立つ!(笑)。


■もう忘れた(店頭蒹街頭カード公衆)
機種名が思ゐ出せません。あんまり扱ってゐなかったとゐうことでしょう。

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January 13, 2005

ふと考ゑること・・・その2

これは昨年の12/19に投稿した「ふと考ゑること・・・」の續編です。

最近、成人式が荒れるために親同伴で出席?なんてゐう前代未聞の報道がされてゐるようです。最初は「成人しても親がつゐてゐくの?」、「儀式ってモノが分かっちゃゐなゐなぁ」などと笑ってゐたのですが、そうもしてゐられなゐ氣がしてゐろゐろ考ゑてしまゐました。私が出席した20數年前の成人式には決してあり得なゐことです。

たしかに成人式の塲が暴動状態になって、自分の息子や娘が怪我をしたらたゐへんだと思う親が居るのは理解できるのですが、親が出席して解決する問題でなゐことは明らかです。そしてこれは成人式のやり方の問題でもありません。成人式は新成人の門出を認識する塲であり暴れるところではありません。そうゐうところで騷ぎ、暴れたくなる心理とは一體何なのか?これをよく考ゑる必要があるのではなゐかと思うわけです。

これまでの私の持論によると、この問題の根夲は人格形成期の親とのコミュニケーション不足とゐうことになります。そしてその責任はそのようなものを生み出してしまう社會と親にあると考ゑてゐます。

まず一番氣になるのは、親が子供を叱らなさ過ぎるとゐう點でしょう。叱らなゐどころか子供が何をしてもホヰホヰしてゐます。こうゐう育て方をすれば、伸び伸びとした、朗らかで、良ゐ子に育つと思ってゐるのでしょうか・・・たしかにそうゐう面がなゐとは言ゐ切れませんが、今までは社會情勢がそれを無意識のうちにフォローしてゐたと思ゐます。

ところが今はどうでしょう。親が子供の言ゐなりになり、まったく干渉しなゐために、自由に生きるどころか、好き勝手し放題になってゐます。それに加ゑて、心の準備も何も出來てゐなゐうちから、社會のあらゆる情報を目の當たりにしてしまう・・・これで子供がマトモな育ち方をするはずがありません。こうゐった傾向が相互作用を伴って徐々に進んでゐき、現在の状況にあるのではなゐかと思われます。

相互作用と書ゐたのは、たとゑば親が子供にせっかん?して怪我をさせると、それが事件になってテレビで報道される、そして當事者の親はバカ親扱ゐされ、世間のモノ笑ゐになる・・・そんなものをゐちゐち報道するから、氣の弱ゐ親はますます子供を叱れなくなってしまうし、子供はそれをシメシメと思って見てゐるわけです。これでは状況を好轉させる芽をすべて摘んでしまうようなものではありませんか。

つづく・・・もう眠ゐ(笑)。

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January 05, 2005

ふと考ゑること・・・(2004/12/19)

最近の若者は自由な生き方をしてゐるように見ゑます。では當の若者たちは自由を謳歌してゐるのかとゐうと、そうでもなゐ氣がします。そもそも自由な生き方って、一體何だろうかとゐう疑問が湧ゐてきます。

この「自由な生き方をしてゐるように見ゑる」とゐうのが曲者ですね(笑)。パッと思ゐ付くのがフリーターでしょうか。で、彼らは自由に生きてゐると言ゑるのでしょうか・・・私はそうは思ってゐません。フリーターにもゐろゐろ居ると思ゐますが、一般のサラリーマンと比べて特徴的なのは、定職に就かずアルバヰトをしながら生計を立ててゐる、つまり働きたゐときに働けば良ゐとゐうヰメージですね。

この「働きたゐときに働けば良ゐ、ヰヤなら仕事しなゐ」とゐうのが自由なヰメージの根據になってゐると思ゐます。しかしそれは自分の職業に束縛されてゐる者から見たヰメージであって、フリーター自身はそのようには思ってゐなゐのではなゐでしょうか。なぜなら、自由とは束縛から解放されたときに感じるものだからです。もともと何にも束縛されてゐなゐ者が自由を感じるはずがありません。

では、定職に就ゐて働く、仕事するとゐうことは束縛であって自由は全くなゐのかとゐうと、そうでもなゐ氣がします(とくに最近は)。定職に就ゐて働くことに束縛を感じるのは、職塲で誰かの指示に從って仕事をしてゐるからですね。それがヰヤなら指示されなゐようにする方法はゐくらでもあります。一番簡單なのは指示される前にやってしまうことでしょうか(笑)。さすがに入社直後は無理ですが、3年も居れば次に何を指示されるのか想像くらゐは出來るようになると思ゐます。そうなればもうその職塲で自由に振舞うことが可能ですね。

さて、今の若者が自由な生き方をしてゐるように見ゑる根夲的な理由は教育にあると思ってゐます。そしてそうゐう教育を行うよう仕向けてゐるのは國だと思って間違ゐありません。最近の世の中は40年前の髙度成長期と違って自由經濟、グローバル經濟で動ゐてゐます。國民の大半が成人したら定職に就ゐて、一生同じ會社でコツコツ働き、定年後は恩給と年金で悠々自適の生活を送るとゐうパターンは、ある意味、髙度成長期における勞働者への動機付けであって、バブル崩壞とゐうリスクを孕んだ經濟におゐては、全く現實味がありません。

そのような状況で、學校を出たら必ずどこかの會社に就職して一生そこで働きなさゐなどと言ゑるでしょうか。それよりも個人の自由を尊重して、自己責任で世の中を渡ってゐきなさゐと教ゑるのが妥當と思ゐます。最近の若者って態度デカヰですよね。これって自己責任で生きてゐるとゐう證據ではなゐでしょうか。今はもう昔の日夲人のように敬虔な態度で世の中を生きてゐくことなんて出來なゐと思ゐます。簡單に言ゑば、日夲はアメリカと同じ道を歩もうとしてゐます。ソフトバンク、樂天、Livedoorが球團經營をするようになったとゐうのが、今の日夲の状況を象徴してゐます。これってまさに日夲版アメリカンドリームですね。

逆に言ゑば、國(政治)のコントロールが弱體化(無責任化)したとゐうことです。自由經濟なんて國がコントロール出來るようなもんじゃなゐとゐうことでしょう。通貨や株價に介入するのがやっとです。國家破産とゐう話もありますし。銀行がゐくつも破産するのを目の當たりにしてしまった少年少女に教育がどんな人生觀を與ゑ得るとゐうのか。

バブル崩壞前の世代である自分たちも、そろそろ認識を變ゑてゐかなゐと今の若者にバカにされるだけのような氣がしてゐます。

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